芦屋で、もうすぐ100年。
これまでも、これからも。
「髭のおじいちゃんに、診てもらってたんですよ」
診察室で、患者さんからそんな言葉をかけていただくことがあります。初代院長・陌間時春のことです。
1929年、時春は芦屋になるまえの精道村で耳鼻科を開きました。自転車で町を駆け回り、地域の皆さんの健康を見守っていたと聞いています。
長い年月がたった今も、診察室でその思い出を聞かせていただける。そんなとき、この医院の歴史は、患者さんお一人おひとりの暮らしの中にも残っているのだと感じます。
ハザマ耳鼻咽喉科の歴史
初代が教えてくれた、町医者の原点
時春については、「とても怖かったんだよ」と教えてくださる方もいます。軍医でもあったので、厳しい一面があったのかもしれません。今の私の診療を見たら、何と言うだろう。そんなことを考えると、すこし身が引き締まります。
一方で、事情があって受診の難しいご家庭にも、時春は足を運び、お子さんの様子を気にかけていたそうです。
母から聞いた、忘れられない話があります。
あるとき夜中に、小さなお子さんの具合が悪くなった知らせを受けた時春が急いで駆けつけました。しかし、その命を救うことはできませんでした。帰ってきた時春が、「遠慮なんかしてなぜもっと早く連絡してくれなかったんや、わしにもあの子を救うために出来たことがあったんじゃないか」と悔やみながら嗚咽を漏らしていたことを、幼かった母は覚えていたといいます。
私はこの話を聞くたびに、町医者の原点を考えます。診察室でお会いするときだけでなく、その方がどんな暮らしを送り、何に困っているのかにも心を向ける。その姿勢を、私も受け継いでいきたいと思っています。
2代目が追い求めた、よりよい医療
2代目院長・陌間啓芳が、生涯をかけて取り組んだのは、顔面神経麻痺の研究でした。この病気について深く学ぶため、啓芳は自らドイツにある
ゲッチンゲン大学の
Adolf Miehlke教授に連絡を取り、留学を決めたそうです。
今ほど海外との行き来が身近ではなかった時代です。自分の学びたいことに向かって一歩を踏み出す、強い意志と行動力があったのだと思います。
学生時代は甲南高校テニス部で、ずいぶん人気者だったとも聞いています。人との距離を縮めるのが上手な人だったのでしょう。その人柄も、海外で学び、信頼関係を築いていく力になったのかもしれません。
そのつながりは、帰国後も続きました。Miehlke教授から大阪大学で講師をしていた啓芳への直接の連絡をきっかけに、1970年、京都大学と大阪大学が協力し、日本で初めての国際顔面神経学会が開催されました。会長を務めたのは、京都大学の森本正紀教授でした。
会は大成功におわり、次の開催に名乗りを上げる国が相次いだとその熱気がつたわってきます。
地域で診療を続けながら、海外にも目を向け、学びを深めていく。私も、目の前の患者さんのために、学ぶことをやめないという姿勢を大事にしていきたいと思います。
3代目が守り続けた、日々の診療
2代目の啓芳が急逝したあと、医院を引き継いだのが、3代目となる私の父 北 眞行でした。
父は母と結婚し、この医院に加わりました。大学で医師として歩んでいく道もあったと聞いていますが、若くして、母の実家である医院を引き受けることになりました。
当時のことを、父はあまり語りません。ただ、厳しい一方で、家族を本当に大切にする人です。医院を引き継いだ決断にも、そんな父の思いがあったのではないかと、私は感じています。
父が診療を続けてきた41年の間には、地域に新しい耳鼻科が増え、コロナ禍もありました。そのなかで、一人ひとりの患者さんを診察し、正確な診断と適切な治療を追求してきました。その積み重ねが、地域の皆さんからの信頼につながってきたのだと思います。
父の姿を語るうえで、欠かせない言葉があります。
「一に勉強、二に勉強」
父の父、北旭が残した、家訓のような言葉です。父はその言葉を聞いて育ち、論文を読み続けてきたそうです。自分の両親や兄弟を深く尊敬する父にとって、学び続けることは、家族から受け継いだ大切な姿勢でもあったのだと思います。
そんな父が、私によく言っていたのは、「まず論文をよく読め」という言葉でした。
経験だけで判断せず、根拠を確かめる。目の前の患者さんのために、勉強を続ける。短い言葉ですが、そこには父自身が大切にしてきたことが詰まっているように感じます。
これからも、この町で相談できる医院に
私は、大学も高校も父や祖父たちのようなところにはいっていません。そのため、すごく劣等感がありました。
そのうえ私は先人たちに比べてまだまだ経験が不足しており勉強しないといけないことがたくさんあります。
自分にはこんなに同じ道で頑張って来た尊敬できる父や祖父たちのお手本があります。まったく同じようにとはいかないかもしれませんが、すこしでも近づけるように日々精進しこんなことを聞いてもいいかなと思うようなことも気軽に相談していただけたら嬉しいです。父や祖父の大切にしてきた姿勢を受け継ぎながら、今この街に住むみなさんにとって困ったときに相談できる医院でありたいと思っています。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
ハザマ耳鼻咽喉科の沿革
- 1929年(昭和4年)
- 陌間 時春(はざま ときはる)が芦屋市(旧精道村)に耳鼻咽喉科診療所を開院
当時では珍しく標榜にカタカナを使用して「ハザマ耳鼻咽喉科」とした
時春は自転車で芦屋中を駆け回り訪問診療などを行っていた
- 1939〜1945年(昭和14年〜20年)
- 第二次世界大戦
開戦中は時春も戦医として出兵 芦屋市も焼夷弾などの空襲に見舞われる
- 1940年(昭和15年)
- 精道村が市制施行して芦屋市となる。全国で173番目の市として芦屋市が誕生する
- 1955年(昭和30年)
- 陌間 啓芳(はざま ひろよし)が大阪大学医学部卒業して大阪医科大学耳鼻咽喉科に入局
- 1961〜1963年(昭和36〜38年)
- 啓芳がドイツ(当時西ドイツ)ザール大学に留学
顔面神経麻痺の権威であったミィルケ教授を師事する
- 1970年(昭和45年)
- 啓芳が第二回国際顔面神経学会の事務局長を務める
- 1971年(昭和46年)
- 啓芳が2代目「ハザマ耳鼻咽喉科」院長就任
啓芳から継承するのであれば手術のできる施設でとの希望あり、ハザマ耳鼻咽喉科を診療所から30床を完備する病院へ建て替えた
- 1975年(昭和50年)
- 北 眞行(きた みちゆき)が大阪医科大学卒業後、京都大学医学部耳鼻咽喉科教室に入局
眞行は京都大学や北野病院を勤務
- 1984年(昭和59年)
- 眞行が京都大学医学部耳鼻咽喉科教室の医局長を就任
- 1985年(昭和59年)
- 4月 娘婿の北 眞行が「ハザマ耳鼻咽喉科」3代目院長を就任
7月 啓芳 逝去
- 1995年(平成7)
- 阪神大震災
ハザマ耳鼻咽喉科周囲のほとんどが地震の被害にあう
眞行が限られた資材の中で地域の方の処置を行うなど奔走する
- 2017年(平成29年)
- 北 真一郎(きた しんいちろう)が福岡大学医学部卒業し研修医を経て京都大学耳鼻咽喉科教室に入局
- 2019年(平成31年)
- 新型コロナウィルス感染症 感染拡大
- 2021年(令和3年)
- 改築後50年目となり老朽化が進んでいたため、建て替えを行う。
同年12月 建て替え後、「ハザマ耳鼻咽喉科」を再開
- 2024年(令和6年)
- 真一郎が「ハザマ耳鼻咽喉科」副院長に就任
- 2025年(令和7年)
- 真一郎が「ハザマ耳鼻咽喉科」院長に就任